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保利執行部と対決 - 折りしも沖縄国会の審議たけなわの某日− 昭和46年11月、ホテル・オークラの一室で一年生議員一同が党執行部の最高幹部と話し合うことになった。 これは、二年生議員の集まりである拓世会が佐藤首相に面会を求めて拒否されたために、若手議員のあいだから、党員と話し合うこともできない非民主的な総裁は、一日も早く退陣すべきであるという造反の火の手が上がったためである。執行部は、これを鎮圧する方法として、党三役が一期、二期、三期の若手議員と3日間のスケジュールで話し合うことになった。 その第一日がこの日の会合である。根回しの名人といわれる保利幹事長は、あの手この手を通じて弱い一年生の発言を封じる工作をつづけた。おそらく佐藤首相の最後の忠臣をもって任じる保利幹事長としては、この会合で党員の中から佐藤引退の要求が公然と行なわれることを神経質なまでに警戒したに違いない。河野洋平、山口敏夫氏等の造反議員を中心とする二期議員にくらべて、比較的穏健な議員の多い一期議員を組みし易しと見ての執行部の計画がありありと見られた。私たち一年生議員は、当選後、44名の会員が集まって“しあわせ会“をつくっていたが、これでは激動期の70年代に挑戦する若手議員の集まりらしくないということで、獅子会と名称を変更したばかりであった。しかしマスコミの評価は厳しく、名前はライオンでもスリーピングライオンズ、ねむれる獅子であると批評されていた。その前夜、私は僚友河野洋平君と日本の将来を語り合い、たとえ一人になっても必ず立ち上がることを誓いあった。私が口火を切れば、浜田君、中山君等血気の同志も立ち上がるだろう。一期のなかから造反の火の手をおこし、二期の河野君、三期の西岡君たちが後続してくれれば、佐藤内閣を退陣に追いこむことも夢ではない、と判断したのである。会議は重苦しい空気の中で始められた。保利幹事長の挨拶後、会場はシーンとしたまま発言を求める者がない。私はたまらずに立ち上がった。「残念ながら自民党の支持率は加速度的に下がっている。しかも佐藤内閣の支持率は、自民党の支持率43%の半分にもみたない21%である。この自民党に対する厳しい批判のなかで、なおかつわが党を支持してくれる人たちの過半数が佐藤内閣を支持していないのである。民主政治においては、政治家は世論に謙虚な姿勢で耳をかたむけるべきでないか・・・」私が発言しだすと、話の中途で保利さんは顔を真赤にして激怒し、「そのような話は聞きたくない。」と怒鳴りだした。専制政治の時代ではあるまいし、党の幹部が自分に都合が悪くなると党員の真実の声を封殺しようとするとは・・・。これでは、オベンチャラばかりがまかり通って、国民の真実の声は聞こえなくなってしまう。私はこの日から、保利執行部の非民主的な体質と徹底抗戦の決意をかためたのである。 |