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田中総理実現までの舞台裏 田中内閣実現の決意
昭和四十五年、東京は残暑がまだ厳しい九月の中旬であった。ときの幹事長田中角栄氏に近い一年生議員二十三人が結集してつくられた“きさらぎ会”の青年部研修会のレセプションが、党本部九階で行なわれた。
自民党の未来をになう、若手議員の選挙区をまもる若き後援者約五百名が集い、むんむんする雰囲気のなかで、顔を上気させた田中幹事長が党の近代化を訴える熱気のこもった挨拶をした。
幹事長の演説後、挨拶に立たされた私は、「国民の期待する党の近代化を実現し、思いきった政治の若返りを断行するためには、近い将来我われの手によって若い党人政治家田中角栄に天下を取らせよう。」と主張し、田中内閣実現を誓って乾杯しようと訴えた。満場はまさに割れんばかりの拍手と歓声にどよめいたのである。
当時、政界の情勢は、佐藤派の長老橋本運輸相(現幹事長)の発言によって佐藤四選が確実視され、総裁候補としては、福田、三木、前尾の三氏が話題の中心であった。
マスコミは福田氏を佐藤内閣のクラウン・プリンスと呼び、田中氏や中曽根氏の出番はその後のことと考えておったのである。
しかし私は、日本の政治を良くするためには、長い官僚政治に終止符をうって、自民党の指導者を若い党人政治家に変えて行かなければ大変なことになるという危機意識をどうしても捨てさることができなかった。
私はその後、ことあるごとに、自民党は官僚政治を脱皮して、若い党人政治家、たとえば田中角栄、中曽根康弘、石田博英といったような人たちの時代をつくらなければならないと、執念のごとく訴えつづけてきた。
幸いに派閥に属しない私の意見は、自民党ヤングパワーの率直な意見としてマスコミから歓迎され、私はその後二年間、新聞、テレビ、週刊誌等を通じて、党人内閣の実現を、ひとすじに訴えつづけてきたのである。
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